千恵はすぐに無理やり笑みを浮かべて、子供たちに向けて微笑んだ。弥生は二人を一瞥し、頭を撫でた。「陽平ちゃん、ひなのちゃん、今日はとてもお利口さんだったね。少しお部屋で休んで、それからそれぞれ荷物をまとめてくれる?」隣にいた千恵はその言葉を聞いて、顔色が真っ青になり、唇を噛みしめた。二人の子供たちはその言葉を聞くと、すぐに弥生を見つめた。まさか、こんなに厳しい弥生を見たことはなかったのだ。ところが次の瞬間、弥生が微笑みながら言った。「明日は学校に行くんだからね」その言葉を聞いた子供たちはようやく安心して、荷物をまとめに行った。二人が部屋に戻った後、弥生は残っていたご飯をゆっくりと食べ終えた。一方、向かいに座っていた千恵は、子供たちに荷物をまとめさせるよう言われた時から、魂が抜けたように座り込んでいた。弥生が食事を終えて片付けを始める頃、千恵はようやく正気を取り戻し、慌てて謝罪した。「ごめんなさい」弥生は淡々と微笑んで答えた。「大丈夫よ。あなたも私のことを思ってのことでしょう。後で弘次に話しに行くから」千恵は、自分が言ったことで後悔していたが、弥生が弘次に話しに行くと言った以上、それ以上何も言えなかった。喉の奥に飲み込んだ言葉をぐっと抑え込んで、それ以上何も言わなかった。弥生は食卓を片付けて、キッチンを隅々まで掃除し、ゴミを捨てた。家の中に汚れが残っていないことを確認すると、自分の部屋に戻り荷物をまとめ始めた。引っ越してきたばかりだったので荷物はそれほど多くなく、簡単に荷造りを終えると、ベッドの端に腰掛けてホテルの予約をするためにスマホを取り出した。予約が終わる頃、陽平がドアを開けて入ってきた。「ママ」弥生はスマホを閉じ、微笑みながら答えた。「荷物はまとめた?」「まとめたよ、ママ」「うん、ひなのは?」「ひなのも終わったよ。部屋でママを待ってる」「そう、じゃあ行きましょうか」弥生は立ち上がり、キャリーバッグを引きながら部屋を出た。玄関を出ると、ちょうど千恵が現れた。彼女は弥生を見つめ、何か言いたげだったが言葉に詰まっていた。「もう出発するの?」「うん。今夜は近くのホテルに泊まるわ。明日学校に行くのに便利だから」弥生が怒っていないように見えるそ
ホテルに着いた時、時間はまだ早かった。弥生はスイートルームを1部屋借り、最初に半月分の賃貸手続きを行った。すべての手続きが完了した後、ホテルのスタッフが彼女を部屋まで案内した。「お客様、お手配いただいたスイートルームには屋外プールが付いています。ただし、冬のため、プールのエリアは利用できませんが。また、お子様をお連れですので、念のため閉鎖状態のままが良いかと思います」「分かりました。ありがとうございます」スタッフの細やかな配慮に感謝しながら、弥生は軽く会釈した。スイートルームは非常に快適だった。ドアを開けた瞬間、淡い香りが漂い、湿気も一切感じられなかった。スタッフは室内設備とプールエリアを点検し、問題がないことを確認すると部屋を後にした。弥生は必要なものを取り出して、適切な位置に置いた。それを見た二人の子供たちも彼女の周りをうろうろして手伝い始め、弥生が手を止めると、ようやく二人も動きを止めた。その後、二人は彼女の膝に飛び乗り、顔を上げて尋ねた。「ママ、おばさんとケンカしたの?」弥生は子供たちに大人のいざこざを知られたくなかったので、別の理由を挙げて答えた。「ひなの、ケンカなんてしていないよ。ただ、おばさんは自分だけのスペースが欲しいのよ。ほら、あなたたちだってそれぞれ自分の部屋で寝たいでしょ?」その説明に、ひなのは首をかしげた。「でも、私たちがあそこに住んでた時も、おばさんはママと一緒に寝てなかったよ?」「そうね、一緒には寝ていなかったけどね。あの家はおばさんが借りたものだし、彼女は家賃を受け取らなかったから、いつまでも居座るのはよくないでしょ?」この説明を聞いて、ひなのはようやく納得してなずいた。「うん、それはそうだね」しかし、一方の陽平は、終始黙っていた。彼の性格はひなのとは異なって、より多くを考えるタイプだった。弥生は優しい声で説明を続けた。「二人とも、あまり考えすぎないで。ママがどこへ行っても、あなたたちも一緒に行くでしょ?だから、安心してママについて来てね」二人を寝かしつけた後、弥生はノートパソコンを立ち上げて、今後の計画を立て始めた。ホテルでの生活は長続きできるものではないため、会社の近くで物件を探す必要があった。彼女は地図を見ながらエリアを検討し、
「どうして僕に言わない?また、徹夜したか?」「大したことじゃないし、わざわざ話す必要もないでしょ」その言葉に、弘次はしばらく黙り込んだ後、ゆっくりと言葉を発した。「それなら、どうして僕が用意した部屋に行かなかったんだ?ひなのは鍵をもう持っているのに」「それがひなのが受け取っただけで、私は受け取っていないから」「弥生……」「ところで、持ってきた朝食って?」弥生は弘次の手から冷めてしまった朝食を受け取り、それをキッチンで温め直し始めた。弘次は彼女の背中を見つめて、目を細めた。彼女が深夜にホテルに移動することを決めたのは、ある意味では自分の思惑もあったのだが、予想以上に彼女の行動が早く、一言も知らせてくれなかったことに苛立ちを覚えた。彼は心の中で自分を嘲笑しながら問いかけた。いつになったら僕は彼女の世界に入ることができるのだろうか?」翌朝昨夜、千恵はあまりよく眠れなかった。明け方にようやく眠りについたが、数時間しか眠れず、昼食の約束を気にして目を覚ました。驚くべきことに、昨日の別れ際、瑛介は自ら彼女に連絡先を聞いて、さらに今日の昼食の約束を提案してきたのだ。彼女が必ず友人を連れてくると約束すると、彼は満足げにその場を去った。しかし、今日になって弥生を連れて行けないと気づいた千恵は、後で適当に説明しようと心に決めた。弥生が言った注意事項は、すっかり彼女の頭から抜け落ちていた。身支度を整えて、時間を確認すると、完璧な姿の千恵は高級レストランへ向かった。このレストランには、以前友人と数回訪れたことがあった。受付で約束を伝えると、スタッフが上階の個室へ案内してくれた。「こちらのお部屋になります」ドアを開けた瞬間、すでに冷たく端正な姿勢で座っている瑛介の姿が目に飛び込んできた。その光景に驚いた千恵は、慌ててスマートフォンを取り出し、時間を確認した。彼女は約束の時間より30分も早く家を出たのだが、彼はそれよりも早く到着していた。約束の時間まであと20分もあるというのに。その事実に、千恵の瑛介への好感はますます高まった。「宮崎さん、こんにちは。こんなに早く来ていて驚きました」千恵は嬉しそうに挨拶をした。しかし、瑛介の視線は彼女には向けられず、代わりに彼女の後ろを探るよ
瑛介はレストランを出たとき、顔を曇らせていた。彼は千恵を利用して、弥生を引き出せると思っていたが、どうやらその目論見は外れたようだ。あの目を逸らす仕草を見る限り、自分の言葉すら彼女に伝えていないのだろう。瑛介はその場でスマホを取り出し、電話をかけた。「ちょっと、ある人を調べてくれないか」一方、千恵がようやく我に返り、彼を追いかけようとしたときには、瑛介の姿はすでに消えていた。仕方なく彼女はスマホを取り出し、瑛介に電話をかけた。電話はしばらく鳴った後、ようやく繋がった。「宮崎さん、さっきは一体どうしたんですか?友人が来なかったけど、本当にごめんなさい。騙すつもりはなかったんです。ただ、昨日の夜、彼女は彼氏と一緒に引っ越してしまったんです。友人の彼氏の前では、あなたのことを話しづらくて......」彼女がまだ言い終わらないうちに、電話の向こうから突然、鋭く耳障りな急ブレーキ音が響いた。それを聞いた千恵は驚き、声を張り上げた。「宮崎さん、大丈夫ですか?」しばらく沈黙が続いた後、冷たく怒りに満ちた声が電話越しに返ってきた。「彼氏?」千恵は反射的に答えた。「そ、そうです、彼氏......」プツン——電話の切断音が鳴り、千恵はようやく状況を理解し始めた。彼女はスマホを持ったまま、ぼんやりと立ち尽くした。瑛介の行動と言葉、それにその反応を思い返して、やっと最近あったことを理解したようになった。「ハックション!」弥生がくしゃみをすると、隣にいた弘次はすぐさまハンカチを差し出した。「大丈夫?」彼女は軽く鼻をすすり、弘次のハンカチを受け取ることなく、そのまま歩き続けた。賃貸会社のスタッフが先を歩きながら説明を続けた。「次はこちらの物件をご覧ください。南向きの大きな窓からは昼間には川の景色、夜には夜景が楽しめます。そして、3LDKに書斎付きです。この条件に最も合う物件ですが。ただし......」スタッフは一瞬言葉を詰まらせたが、そのまま言葉を飲み込んだ。弥生は部屋に足を踏み入れ、一通り見回した後、とても満足そうに頷いた。立地も良く、学校や会社から近い点も気に入ったようだ。「家賃はいくらですか?」「そうですね、この物件に入居するつもりですか?」スタッフは驚きの表情を浮
離婚後も元妻のことを気にかける男性なんて、少ないものだ。隣で話を聞いていた弘次は、この会話を耳にして少し違和感を覚えた。「ああ、そういえば君とこの大家さん、ちょっとした縁があるみたいだよ」「えっ?」弥生は目を丸くし、弘次の言葉に少し驚いた。「そうだね。私がこの家を借りられるのもその縁のおかげですかね?」「もしかしたら、本当に縁があれば借りられるかもしれませんよ。霧島さん、この大家さんの苗字も『霧島』なんです」「霧島?」「そうなんです。それに、若くて美人だそうですよ」弥生はその話を聞いて少し違和感を覚えたが、特に深く考えることはなかった。一行はエレベーターで下に降り、建物の出口に向かったところで、スーツ姿の中年男性と鉢合わせた。おそらくスタッフの上司らしい。その男性はスタッフを見るなり顔を曇らせ、怒りを露わにした。「おい、お前またお客さんをこのエリアに連れてきたのか?この間から何度言ったら分かるんだ、ここは貸し出せないって!こんなところ見せて、借り手が見つからなくて苦労するのは俺なんだぞ、俺を殺す気か?」中年男性はスタッフを叱りつけた後、弥生と弘次に振り返り、頭を下げた。「いや、失礼しました。うちの社員がどうもこのエリアの風水に惚れ込んでしまいましてね。それでついお客様をここにお連れしたんですが、ここは貸し出し不可ということはもうお聞きになってますよね?」弥生は微笑んで頷いた。「はい、伺っています」「本当に申し訳ません。ただお客さんと大家さんは同じ苗字で何かご縁があるかもしれないと思いまして、そこで、ご案内いたしました」中年男性は目を丸くしながら、弥生を上から下まで眺めた。「なるほど、帰国されてこれからのご活躍ですね。それなら東南の方にある別の物件をお見せしてはどうです?」「そうですね、あの物件を忘れてしまいました。次はこちらをご案内しますね」「ありがとうございます」次に案内された物件は、先ほどの物件ほどではなかったものの、内装の雰囲気が気に入った弥生は少し考えた後、納得した様子で頷いた。「家賃は?」「家主さんの希望で、敷金1ヶ月、前払い6ヶ月分となります。ご都合いかがでしょうか?」「いいと思いますが。ただ、最近少し忙しいので、引っ越しは少し後になりそうです」「分か
「っえ?」弥生は自分の耳を疑った。「霧島さま?」スタッフの恭しい態度に彼女は困惑し、先ほどの会話が脳裏をよぎる。あのエリアは「大物」が元妻に譲ったものだという話......彼女の目つきが微妙に変わった。スタッフが言っていた『大物』と『元妻』、もしかして私と瑛介のこと?苗字が霧島で、海外に行って、しかも連絡がつかない......こんなにも一致することがあるのか?さらに、スタッフが彼女の身分証明書を見るや「さま」と呼ぶようになったことにも疑問を抱いた。信じがたい気持ちを抱えながらも、弥生はスタッフに真剣に言った。「さっき言っていた、あの物件のオーナーの連絡先、見せてもらえますか?」その言葉を聞き、スタッフの目が困惑の色を帯びた。「ええと......あの物件のオーナーって、あなたじゃないんですか?」そう言いながらも、スタッフは従順に電話番号を探して彼女に手渡した。弥生がその番号を確認すると、それは以前の彼女自身の電話番号だった。そして、物件の名義もすべて「霧島弥生」という名前になっていた。「全部私の......?」目の前の事実を目にして、弥生は呆然とその場に立ち尽くした。しばらくしてようやく冷静さを取り戻した。当時、彼女は何も受け取らないと決めていた。結婚証明書を取得するだけで、物質的なものは一切求めなかった。霧島家が落ちた際、瑛介が手を差し伸べてくれたことで、彼女の父に対する陰謀を防ぎ、人々も彼女に敬意を払った。彼女はそれを彼への恩返しとし、それ以上は望まなかった。だが、彼はこんなにも多くの財産を彼女に譲渡していたとは。「一体、いつの間に?」弥生はその疑問を抱き、スタッフに尋ねた。「この物件が私の名義になったのは、いつ頃のことですか?」この質問は、スタッフの知っていることの範囲を超えていた。「申し訳ありませんが、それは分かりませんね。私たちはただ、自分の上司が誰かを知っている程度です。そこで、霧島さまの顔も知らなかったのです」そう答えながら、スタッフはふと何かに気づいた様子で、目の前の美しく端正な弥生と、その後ろに立つメガネをかけた温和な雰囲気の男性を交互に見つめた。心の中で、彼は一つの物語を描き始めた。だがその想像が深まる前に、弘次が口を開いた。「弥生、
弥生は答えた。「私でも家賃を取るの?」「うん、ちょっとでも収入が増えたらいいと思ってさ」収入...... 弘次がこの程度のお金を必要としているとは......「いくら?もし激安で貸してくれるつもりなら、遠慮しておくわ」「そんなつもりじゃないよ。あそこの地価は高いし、購入にもかなりの費用がかかったんだから、もし借りたいなら月に20万円もらうけど」家賃を聞いた弥生は少し驚いた。高いと感じたわけではなく、好立地なら月20万円は普通だが、本当に弘次が言葉通りに家賃を請求するとは思わなかったのだ。だが、それによって弥生の気持ちはかえって楽になった。「それじゃ、お願い」彼女が目喜んでいる様子を見て、弘次の眼の奥にほんのり無力感が浮かんだ。家賃を取るのはただの手口だ。そうしなければ彼女を引き留めることも難しいのだから。引っ越すことが決まると、弘次はその日の夜に友作を呼んで手伝わせた。もっとも、引っ越しと言っても持ち物は少ない。早川に来たばかりの彼女はほとんど荷物を持っていなかったのだ。ただし、二人の子供は初日に学校から学用品や制服をたくさん持ち帰ってきた。弥生はそれらをスーツケースに詰め、ホテルを退去する前にフロントで手続きをした。フロントスタッフは、彼女が数日しか滞在していないにもかかわらず、依然として丁寧な態度で対応した。「ご利用ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」弥生と弘次がホテルを後にして間もなく、青いベントレーの車がホテル前に停まった。車から降りたのは、背が高く痩せた一人の男だ。洗練されたスーツ姿の男は、俊美な顔を持っていたが、無表情だった。後ろには、カバンを持った慌ただしいもう一人の男が彼の後ろを追っていた。「社長、もう少しゆっくりしていただけませんか」瑛介は顔を冷たく引き締めたまま、フロントへまっすぐ向かった。このホテルのエレベーターはカードキーが必要なため、宿泊しなければ階上へ上がれない様になっている。フロントに到着すると、スタッフが声を掛けた。「いらっしゃいませ」瑛介はスタッフの挨拶を聞いても、黙り込んでいた。代わりに健司が前に進み出て、明るく尋ねた。「すみません、お尋ねしたい方がいまして」「お探しの方ですか?」「はい。霧島さ
表情を変えず冷静だった瑛介がその言葉を聞くと、目を細めた。「ここにいないのか?それなら、彼女はどこへ行った?」「それはこちらでは分かりかねます。お客様での行き先についてお聞きすることはありませんから」健司も頷いた。「まあ、それは確かにそうですね」「ただ......」彼は疑念を抱くように目を細め、フロントスタッフをじっと見つめた。「失礼だが、本当に知らないのか、それとも隠しているのか?」「あのう、繰り返し申し上げますが、お探しのお客様はチェックアウトされまして......そうだ、ちょうど少し前です」その答えを聞いた瞬間、瑛介の表情はさらに険しくなった。彼が来ると、彼女は出て行った。前回も、あの女性の家で同じことがあった。彼が訪ねた時、彼女はちょうど外出していた。今回も彼が来ると、彼女は出て行ったのだ。偶然か、それとも何か意図的なものなのか?そのことを考えた瑛介は、鋭い目つきでスタッフに尋ねた。「一人で出たのか?」フロントスタッフたちは一瞬戸惑い、互いに顔を見合わせた後、小さな声で答えた。「いえ......一人ではありませんでしたが」その言葉を聞いた瑛介は、堪えきれず冷笑を漏らした。彼はそれ以上聞く気も失せたようで、その場を離れた。健司は急いで後を追いながら言った。「なんてこのタイミングで出て行ったんでしょう。社長、行き先をお調べしますか?」その言葉を口にしながら、健司はいきなり瑛介にぶつかってしまった。彼は驚いて後退りし、慌ててお詫びした。「あっ、申し訳ありません、大丈夫ですか?」「偶然?」瑛介は振り返して、冷たく彼を睨みつけた。その目はまるで氷の刃のように鋭く冷たい。「これが偶然に見えるのか?」健司は口を閉ざして、おそるおそる尋ねた。「偶然ではないとすれば、僕たちを意図的に避けている......ということでしょうか?」その言葉を聞いた瞬間、瑛介の表情はさらに険しいものとなった。健司は肩をすくめながら続けた。「それで、探しに行かれますか?」「探す?」瑛介は心の中で冷笑した。他の男と一緒にいる彼女を見に行くのか?彼は無言で踵を返し、歩き去った。健司は彼の意図が全く読めないまま、急いで後を追いかけた。「社長、もう探さないんですか?」
瑛介は子供たちを家に連れて帰ったあと、わざわざシェフを呼んで美味しい料理を作ってもらい、さらにおもちゃも用意させていた。まだ二人の好みがはっきり分からなかったのと、自分でおもちゃを買ったことが一度もなかったこともあって、とにかく手当たり次第にいろいろな種類を揃えたのだった。二人の子供たちはそんな光景を見たことがなく、部屋に入った瞬間、完全に呆気に取られていた。そして二人は同時に瑛介の方へ顔を向けた。ひなのが小さな声で尋ねた。「おじさん、これ全部、ひなのとお兄ちゃんのためのなの?」「うん」瑛介はうなずいた。「君たちのパパになりたいなら、それなりに頑張らなきゃな。これはほんの始まりだよ。さ、気に入ったものがあるか見ておいで」そう言いながら、大きな手で二人の背中を優しく押し、部屋の中へと送り出した。部屋に入った二人は顔を見合わせ、ひなのが小声で陽平に尋ねた。「お兄ちゃん、これ見てもいいのかな?」陽平は、ひなのがもう気持ちを抑えきれていないことを分かっていた。いや、実は自分もこのおもちゃの山を見て心が躍っていた。しばらく考えてから、彼はこう言った。「見るだけにしよう。なるべく触らないように」「触らないの?」ひなのは少し混乱した表情を見せた。「でも、おじさんが買ってくれたんでしょ?」「確かにそうだけど、おじさんはまだ僕たちのパパじゃないし......」「でも......」目の前にある素敵なおもちゃの数々を、ただ眺めるだけなんて、あまりにもつらすぎる。ひなのはぷくっと口を尖らせ、ついに陽平の言葉を無視して、おもちゃの一つに手を伸ばしてしまった。陽平が止めようとしたときにはもう遅く、ひなのの手には飛行機の模型が握られていた。「お兄ちゃん、見て!」陽平は小さく鼻をしかめて何か言おうとしたが、そこへ瑛介が近づいてきたため、言葉を呑み込んだ。「それ、気に入ったの?」瑛介はひなのの前にしゃがみ、彼女の手にある飛行機模型を見つめた。まさかの選択だった。女の子用のおもちゃとして、ぬいぐるみや人形もたくさん用意させたのに、彼の娘が最初に手に取ったのは、まさかの飛行機模型だった。案の定、瑛介の質問に対して、ひなのは力強くうなずいた。「うん!ひなのの夢は、パイロットになることなの!」
とにかく、もし彼が子供を奪おうとするなら、弥生は絶対にそれを許さないつもりだった。退勤間際、弥生のスマホに一通のメッセージが届いた。送信者は、ラインに登録されている「寂しい夜」だった。「今日は会社に特に大事な用事もなかったから、早退して学校に行ってきたよ。子供たちはもう家に連れて帰ってる。仕事終わったら、直接うちに来ていいよ」このメッセージを見た瞬間、弥生は思わず立ち上がった。その表情には、明らかな驚きと怒りが浮かんでいた。だがすぐに我に返り、すぐさま返信した。「そんなこと、もうしないで」「なんで?」「君が私の子供を自宅に連れて行くことに同意した覚えはない」相手からの返信はしばらくなかったが、しばらくしてようやくメッセージが届いた。「弥生、ひなのちゃんと陽平くんは、僕の子供でもある」「そう言われなくても分かってる。でも、私が育てたのよ。誰の子かなんて、私が一番よく分かってる」「じゃあ、一度親子鑑定でもしてみるか?」「とにかく、お願いだから子供たちを勝手に連れ出さないで」このメッセージを送ってから、相手は長い間返信を寄こさなかった。弥生は眉をわずかにひそめた。もしかして、彼女の言葉に納得して子供たちを連れて行くのをやめたのだろうか?だが、どう考えてもおかしい。瑛介は、そんなに簡単に引き下がる男ではない。不安が募る中、まだ退勤時間まで15分残っていたが、弥生はもう我慢できず、そのまま荷物をまとめて早退することに決めた。荷物をまとめながら、弥生は心の中で瑛介を罵っていた。この男のせいで、最近はずっと早退ばかりしている。まだ荷物をまとめ終わらないうちに、スマホが再び震えた。ついに、瑛介から返信が届いた。「子供は車に乗ってる。今、家に帰る途中」このクソ野郎!弥生は怒りに震えながら、電話をかけて文句を言おうとしたその瞬間、相手からまた一通のメッセージが届いた。「電話するなら、感情を抑えて。子供たちが一緒にいるから」このメッセージを見た弥生は言葉を失った。腹立たしい!でも子供たちのことを考えると、彼女は何もできない自分にさらに苛立った。彼のこの一言のせいで、「電話してやる!」という気持ちは完全にしぼんだ。電話しても意味がない。どうせ彼は電話一本で子供たち
しばらくして、弥生はようやく声を取り戻した。「......行かなかったの?」博紀は真剣な面持ちでうなずいた。「うん、行きませんでした」その言葉を聞いた弥生は、視線を落とし、黙り込んだ。彼は奈々に恩がある。もし本当に婚約式に行かなかったのだとしたら、それはまるで自分から火の中に飛び込むようなものではないか?でも、行かなかったからといって、何かが変わるわけでもない。「当時は、多くのメディアが現場に詰めかけていました。盛大な婚約式になるだろうと、皆がそう思っていたからです。でも、当の主役のうち一人が、とうとう姿を現さなかったんですよ。その日、江口さんは相当みっともない状態だったと聞いています。婚約式の主役が彼女一人だけになってしまい、面子を潰されたのは彼女個人だけでなく、江口家全体にも及んだそうです。ところが、その現場の写真はほとんどメディアに出回ることはありませんでした。撮影されたものは、すべて削除されたらしくて......裏で何らかのプレッシャーがかかったのかもしれませんね」そこまで聞いて、弥生は少し疑問が浮かんだ。「もしかして......そもそも婚約式なんて最初からなかったんじゃないの?」彼女の中では、瑛介が本当に行かなかったなんて、どうしても信じがたかった。あのとき彼が自分と偽装結婚して、子供まで要らないと言ったのは、心の中に奈々がいたからではなかったのか?それなのに、奈々のほうから無理やり婚約に持ち込もうとして、結局うまくいかなかったって......「最初は、みんなもそうやって疑ってたんですよ。でも、あの日実際に会場にいたメディア関係者の話によると、現場は確かにしっかりと装飾されていて、かなり豪華な式場だったそうです。ただ、どこのメディアも写真を出せなかった。すべて封印されて、もし誰かが漏らしたらクビになるっていう噂まで立っていたんです。でもその後、思いがけないことが起きましてね......たまたま近くを通りかかった一般人が、事情を知らずに会場の様子を何枚か写真に撮ってネットに投稿しちゃったんです。それが一時期、すごい勢いで拡散されたんですけど......すぐに削除されてしまいました」「写真に何が写ってたの?」博紀は噂話を楽しむように笑った。「僕も、その写真を見たんです。ちょうど江口さんが花束を抱え
博紀はにやにやしながら言った。「あれ、社長はまったく気にしていない様でしたけど、ちゃんと聞いていらしたんですね?」彼女は何度か我慢しようとしたが、最終的にはついに堪えきれず、博紀に向かって言い放った。「クビになりたいの?」「いやいや、失礼しました!ちょっと場を和ませようと思って冗談を言っただけですって。だって、反応があったからこそ、ちゃんと聞いてくださってるんだって分かったんですし」弥生の表情がどんどん険しくなっていくのを見て、博紀は慌てて続けた。「続きをお話ししますから」「当時は誰もが二人は婚約するって思ってたんです。だって、婚約の日取りまで出回ってたし、中には業界の人間が婚約パーティーの招待状をSNSにアップしてたんですよ」その話を聞いた弥生の眉が少しひそめられた。「で?」「社長、どうか焦らずに、最後までお聞きください」「その後はさらに多くの人が招待状を受け取って、婚約会場の内部の写真まで流出してきたんです。南市の町が『ついに二人が婚約だ!』って盛り上がってて、当日をみんなが心待ちにしてました。記者が宮崎グループの本社前に集まって、婚約の件を聞こうと待機してたんです。でも、そこで宮崎側がありえない回答をしたんです。『事実無根』、そうはっきりと否定されたんですよ」弥生は目を細めた。「事実無根?」「そうなんです。宮崎さんご本人が直接出てきたわけではありませんが、会社の公式な回答としては、『そんな話は知らない、まったくのデマだ』というものでした」博紀は顎をさすりながら続けた。「でも、あの時点であれだけの噂が飛び交っていたので、その回答を誰も信じようとしなかったんです。その後も噂はさらに加熱していって、会場内部の写真が次々と流出しましたし、江口さんのご友人が彼女とのチャット画面まで晒して、『婚約の話は事実です』なんて証言までしていたんですよ。そのとき、僕がどう考えていたか、社長はわかりますか?」弥生は答えず、ただ静かに博紀を見つめていた。「ね、ちょっと考えてみてください。宮崎さんはあれほどはっきりと否定しているのに、それでもなお婚約の噂が止まらないって、一体どういうことでしょうか。それってもう、江口さんが宮崎さんに『婚約しろ』と無言の圧力をかけているようにしか見えなかったんですよ。皆の前で『私たち婚
もともと弥生の恋愛事情をネタにしていただけだったが、「子供」の話が出た途端に、博紀の注目点は一気に変わった。「社長がお産みになった双子というのは、男の子ですか?それとも女の子ですか?」弥生は無表情で彼を見た。「私じゃなくて、友達の話......」「ええ、そうでしたね、社長の『ご友人』のことですね。それで、そのご友人がお産みになった双子というのは、男の子でしょうか、それとも女の子でしょうか?」「男の子か女の子かって、そんなに大事?」「大事ですよ。やっぱり気になりますから」「......男女の双子よ」「うわ、それなら、もし元ご主人がお子さんを引き取ることに成功したら、息子さんと娘さんの両方が揃ってしまうじゃないですか!」「友達の元夫ね」「そうそう、ご友人の元ご主人のことですね。言い間違えました」「でも瑛介......じゃなくて、社長のご友人は、どうして元ご主人が子供を『奪おうとしている』と考えていらっしゃるのでしょうか?一緒に育てたいという可能性は、お考えにならなかったのですか?」「一緒に育てる?冗談を言わないで。それは絶対に無理」「なんでですか?」博紀は眉を上げて言った。「その元ご主人......いえ、社長のご友人の元ご主人というのは、かなりのやり手なんでしょう?そんな方が一緒に育てるとなれば、むしろお子さんにとっては良いことなのではありませんか?」「いいえ、そんなの嘘よ。ただ奪いたいだけ、奪う」弥生は少し固執するように、最後の言葉を繰り返した。「彼にはもう新しい彼女がいるのよ。協力して育てるなんて全部ありえない。ただ子供を奪いたいだけなの」「新しい彼女?」その言葉を聞いたとき、博紀はようやく核心にたどり着いた気がした。彼はにこやかに言った。「つまり社長はこうお考えなんですね。宮崎さんにはすでに新しいパートナーがいる。だから、彼が子供を奪おうとしているのではないかと。違いますか?」弥生は彼をじっと見つめた。何も答えなかったが、その表情が全てを物語っていた。しかも、彼女自身は気づいていないようだったが、博紀はもう「社長の友達」などとは言わなくなっていた。次の瞬間、彼女は博紀が苦笑いするのを見た。「もし社長がご心配なさっているのがそのことでしたら......気になさらなくて大丈夫ですよ
「うん」瑛介は冷たく一声だけ応えた。「じゃあ、社長......会社に戻りましょうか?仕事が山積みでして、このままだと......」その後の言葉を健司は口にしなかったが、瑛介自身も理解していた。彼は唇の端を真っすぐに引き締め、最後に視線を外して言った。「会社に戻ろう」弥生は地下鉄の駅に入ってしばらくしてから、思わず後ろを振り返った。誰もついてきていないのを確認して、ほっとしたと同時に、心のどこかでほんの少しだけがっかりしている自分に気づいた。だがその淡い感情もすぐに押しやり、弥生は素早く切符を買ってその場を離れた。その後、会社ではずっと気分が上がらず、会議中でさえどこかぼんやりとして、心ここにあらずの状態だった。ぼーっとしながら会議を終えた後、弥生のあとをついて出てきた博紀が、思わず彼女の前に立ちふさがった。「社長、ここ数日、少しご様子がおかしいようですが、大丈夫ですか?」その言葉に弥生は少し立ち止まったが、彼の問いには答えなかった。「社長、何かありましたか?僕でよければお話を伺いますが......」弥生は首を振った。「いいわ。私のことを話したら、きっと明日にはみんなに知れ渡ってるでしょうから」「それはあんまりですよ。確かに僕はゴシップ好きかもしれませんが、口は堅いつもりですよ。もし僕が軽々しく話すような人間なら、今ごろ社長と宮崎さんのことは社内中に広まっているはずでしょう?」そう言われて、弥生は反論できなかった。会社の中で彼女と瑛介のことを知っている人は、実際ほとんどいない。以前、あの新入社員が偶然目撃したのは例外として、それ以外は本当に誰も知らなかった。博紀は確かに噂好きではあるけれど、口は堅い。彼女の悩みを、誰かに相談したい気持ちはずっとあった。年老いた父には、あまり頻繁に頼れないし......博紀の年齢を思い出しながら、弥生は小さく声を出した。「ねえ、もし君が奥さんと離婚したとしたら......」「え?」博紀はすかさず遮った。「『もし』なんてありませんよ。僕はうちの妻と絶対に離婚なんてしませんから!うちはとても仲良しなんですから!」博紀はにっこり笑って言った。「僕からのアドバイスとしては、『友人』の話ということにして切り出されたらいかがでしょうか?」友人
しかし陽平は前に進まず、ためらいがちにその場に立ち尽くしていた。「ひなのはもう車に乗ったわよ。何を心配しているの?ひなのを置いていくわけないでしょう」弥生はそう言って、自ら陽平の手を取り、車の方へと歩き出した。瑛介がひなのを抱き上げて車に乗せた仕草は、確かに弥生の心を揺さぶった。瑛介が子供を連れて行こうとする限り、自分も無視することなどできない。弥生が車に乗り込むのを見届けると、瑛介は薄い唇をゆったりと持ち上げ、柔らかく美しい弧を描いた。しばらくして、ひなのを自分の腕に抱きかかえた。今日は自らハンドルを握ることはなく、運転席には前方に運転手が控えていた。弥生と陽平が乗車したのを見届けると、外で控えていた健司も続いて乗り込んだ。健司が車に乗ってからは、視線が完全に弥生と二人の子供たちに釘付けだった。この二人の子が瑛介の子供だと知ったときは、本当に驚愕した。いつもクールな瑛介の様子からして、彼は一生独身を貫くと思っていたのに、まさか、子供が二人もいたなんて......しかもなにより、未来の社長夫人があまりにも美しすぎる......そんなことを考えていると、健司はふっと冷たい視線が自分の顔に突き刺さるのを感じた。その視線の先をたどると、瑛介の氷のような警告の視線とぶつかった。その目はまるで「弥生をどこ見ているんだ」と無言で告げているような、鋭く研ぎ澄まされた視線だった。健司はとっさに目を逸らすと、「……見てません」と、心の中で慌てふためきながら呟いた。朝食を終えると、瑛介は運転手に二人の子供を学校に送るよう指示した。学校に着くと、弥生はすぐに車を降りた。教師は二人が同じ車から降りてくるのを見て、少し驚いたような目でこちらを見た。昨日の弥生の怒りを見たその教師は、彼女の目を見ることすら恐れていた。きっとまた怒られるのを怖れているのだろう。昨日のことを思い出し、弥生は少し後悔の念にかられた。ちょうど謝ろうとしたそのとき、隣から瑛介の声が聞こえた。「行こう、会社まで送るよ」その一言で、弥生の頭の中の思考は瞬く間にかき消され、冷ややかに口角を引き上げると、彼の提案をきっぱりとはねつけた。「送らなくてもいい、自分で行くわ」瑛介は唇をきゅっと引き結んだ。「歩いて会社に行くつもりか?」「
たとえ弘次が本当に忘れていたとしても、友作が忘れるはずがない。......そう思い、今回の一件だけで弘次のことを疑う気持ちを完全に消すことは、弥生にはできなかった。彼女はソファに身を投げ出し、深く沈み込むようにして目を閉じた。翌朝。瑛介を避けるため、弥生はいつもより30分早く子供たちを連れて家を出た。朝食も外で済ませるつもりだった。彼を避ける完璧な計画だったはずなのに、マンションを出た瞬間、目に飛び込んできたのは、一台のストレッチ・リンカーンだった。その横で、健司が欠伸をかみ殺しながら立っていた。明らかに眠たそうで、ぼんやりしている。弥生が彼を見つけて数秒の間に、健司は連続して二回もあくびをした。三回目のあくびに入ろうとした瞬間、子供を連れて降りてくる弥生を見つけた。途端に眠気も吹き飛び、目が覚めたように弥生の方へ駆け寄ってきた。「霧島さん、おはようございます!」やばい......健司は数歩で彼女の進路を塞ぎ、元気いっぱいに言った。「今日は早いですね!道中、社長にそこまで早く来なくてもいいって言ったんですが、社長はきっと早く降りてくるはずだって......いやあ、さすが社長、読みが鋭いですね」そのとき、瑛介が車から降りてきた。「おじさん!」ひなのは大喜びで彼に向かって駆け出していった。......昨夜、自分と約束した話はもう全部忘れてしまったようだ。瑛介は膝を折り、ひなのを抱き上げた。今日はグレーのロングコートに、ネクタイとスーツを身にまとい、きちんとしていた。その腕の中のひなのは、コートを着ていて、まるでお餅のようにふわふわして可愛らしく、二人の並ぶ姿はとても雰囲気がよく、しかも顔立ちまで似ていた。弥生は目を閉じて、この光景を見ないようにした。「霧島さん、お嬢さんとお坊ちゃん、こんなに早くお出かけとは......まだ朝ごはんはお済みじゃないでしょう?」弥生は何も答えず、唇を固く引き結んだ。健司も彼女の無視に気づき、気まずそうに黙り込んだ。瑛介はひなのを抱いたまま弥生の元に近づき、弥生の隣で少し後ろに下がっている陽平に視線を落とした。そして再び、弥生の顔を見つめた。「朝ごはんを買いましょう」弥生はその場でじっと立ち止まり、冷たい視線で瑛介を見返した。瑛介はその
その言葉を聞いて、弥生は思わずぎょっとした。ひなのがそんなことを思っていたなんて......彼女は少しだけ眉をひそめたが、すぐに表情を緩め、しゃがんでひなのに手招きをした。ひなのは素直に歩み寄ってきて、弥生の胸にすっぽりとおさまった。「ママ」弥生は小声で様子を探るように尋ねた。「さっきの言葉......誰かに教えてもらったの?」ひなのは小さな声で答えた。「誰にも教えてもらってないよ、ママ。ひなのが自分で思ったの。ママ、おうちに帰ってすぐに窓のところに行って、寂しい夜さんを見てたでしょ?」「違うわ。ママはただ......カーテンを閉めに行っただけよ」「でも、ママがカーテンを少しだけ開けて、こっそり覗いてるの、見えちゃったよ?」この子、どうして、いつも瑛介の味方ばかりするの?そう思った弥生は、ひなのの柔らかいほっぺを指でむにっとつまんで、軽くたしなめた。「ひなの、最近ママの言うことに逆らうことが多くなってない?」ひなのの顔は元々もちもちしていて、弥生につままれたことでさらにピンク色に染まり、とても可愛らしかった。ぱちぱちと瞬きをして、純真な声で言った。「でも、ママ......ひなの、ほんとのこと言っただけだよ?」......まあ、まだ五歳だし、言っても通じないかもね。そう思いながらも、弥生は諦めきれず、でも諭すような口調で続けた。「ひなの、ママとお約束できるの?」「どんな約束?」「これからはね、寂しい夜さんの前では、ママが言ったことがすべて正しいって思って、ママと反対のことを言っちゃダメよ」ひなのはすぐに答えなかった。少し不思議そうな顔で訊き返してきた。「ママ、寂しい夜さんのこと......好きじゃないの?」ついに来た、この質問......弥生はすかさずうなずいた。「うん」「じゃあ、寂しい夜さんのことが嫌いなの?」この質問には、すぐには答えられなかった。 「嫌い」と言い切ってしまったら、娘の心にどんな影響があるのかと心配していた。しばらく考えた末、弥生はやさしく問いかけた。「ひなの、最近悠人くんと仲良くしてるでしょ?好き?」「うん、好き!」「じゃあ、前の席にいる男の子は?あの子のことも好き?」ひなのは少し考えて、首を横に振った。「あの